ガチャとZ世代的平等主義

Gold Dice
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最近メメントモリというソシャゲをやり始めた。
水彩画風の絵柄に惹かれて事前登録していて、通知が来たのでダウンロードして開始したという流れ。
確かに水彩画っぽいところは幻想的で良いのだけど、ソシャゲにありがちな中身の無いストーリーと凡庸なシステム、高額課金前提なのか進行させるのがかなりキツいバランスで、数日にして早くも辞めようかと思っている。

本題に移ろう。「Z世代」のような分類によって、個人の行動原理を推測しようとする試みははっきり言って愚かだが、ゆるく世代の傾向を見る程度であれば、参考になる部分はある。最近Z世代という単語を耳にする機会が増えてきたので、少し前に「先生、どうか皆の前でほめないで下さい―いい子症候群の若者たち」という書籍を読んでもみた。

さて、「Z世代は○○ネイティブ」的な表現を使うならば、彼らは「ガチャネイティブ」と言えるのではないか。「親ガチャ」のような表現は、「ガチャ」という仕組みにどれだけ慣れ親しんでいるかを端的に表している。

ソシャゲではガチャを引いて出るキャラにはしばしば、R/SR/SSR…のようなレアリティが設定されている。レアリティのランクが高いキャラほど、各種パラメーターが高くゲーム上有利になっている。キャラを同じLv.まで育成しても、RのLv.20よりSSRのLv.20の方がずっと強いとか、Rのキャラを育成して到達出来るLv上限はSSRのLv上限よりもずっと低いとか、レアリティに応じて明確な差が付けられている。

この世界観を現実と照らし合わせるなら、「持って生まれた能力が将来の決定要因となる世界」ということになる。「努力では太刀打ち出来ない世界」と言い換えてもいい。気合いだけで問題が解決されてしまう少年漫画的世界観とは真逆だ。

ガチャのような極端な「生まれ持った能力反映型」社会では、生まれ持った能力が低い者は淘汰される。そう、ガチャで引いた不要キャラを素材に変換するかのように。

不要品として廃棄されないためには、自分の能力が絶対的に劣っていることが表に出ないようにしなければならない。自分の能力が相対的に劣っていることが明らかにならないように、優れた能力を持つ者がいれば、排除しなければならない。よく言われるZ世代の「平等主義」はある意味理に適っている。

しかし、少なくとも日本は「生まれ持った能力が評価されない」タイプの社会であって、「ガチャ的恐怖感」を現実世界に投影するのは間違っている。スポーツ・芸術など一部の分野を除けば、未だに年功序列がまかり通っているなど、能力主義とはほど遠いケースが多いのだから。

「能力が評価されない」世界では、明確な失敗をしない、問題を起こさないことが重要になる。上手くいかなかった場合に備えて、「自分が決めた」のではなく「みんなで決めた」というストーリーを作るために、「主体的」に動かないといけないのだ。

つまり、Z世代も、より上の世代も、結局同じ穴の狢なのである。「能力主義からの逃避」という意味では何ら違いがない。

Z世代は物心ついたときからデジタルツールに慣れていて、サービスプロバイダーへの個人情報提供にも寛容である、といった説明を見ることが少なくない。確かに納得感がある説明だ。しかし、もしZ世代が「ガチャに慣れている」が、「ガチャのような世界観に恐怖を抱いている」のであれば、そういった話は眉唾になってしまう。カテゴライズすると理解した気になれるかもしれないが、それはまやかしに過ぎない。

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