サブスク時代に過去のコンテンツを「今や古い」ものと感じさせる要因

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きっかけ

現代のコンテンツは倍速視聴や10秒飛ばしを前提に、主人公や登場人物の心情などを細かく発言や心の声として説明させたり、テロップを過剰に付けたりする傾向がある、というWeb上の記事を見かけた。

定額制のコンテンツ配信サブスクサービスが増える中で、新しいコンテンツは膨大な過去のコンテンツとも競争しなければならなくなっている。

現代の視聴スタイルに合致するコンテンツを制作すること、さらに言えば、古いコンテンツの視聴を難しくするように視聴スタイルを変える方向に個々の消費者・社会を誘導することは、効果的な「古いコンテンツとの戦い方」に思える。

「景の海のアペイリア」と「G線上の魔王」

最近この2つのタイトルのヴィジュアルノベルをプレイした。どちらもレビューの評価はかなり高い作品で、「G線上の魔王」については、往年の名作として扱われることが多い。

景の海のアペイリア

「景の海のアペイリア」は、2017年の(つまり最近の)作品。メインヒロインのアペイリアはAIという設定というSF作品で、画も含めて最近のコンテンツだなという印象を受ける。

レビューのコメントに「竜頭蛇尾」という説明を見つけた通り、もう少し丁寧な終わり方に出来なかったのかとは思ったけれど、読み始めると止まらない面白さはあったし、読了感も悪くなかった。各ヒロインも印象に残っている。ましろの話し方やばたん。

感動した作品とまでは言えないし、残念に感じるところも色々あったものの、総合的にはプレイして良かったと断言出来る。ストーリーについて考えさせるだけではなく、作品を通じた普遍的メッセージがいくつも伝わってきた。

G線上の魔王

G線上の魔王は2008年の作品。今から15年前の作品で、画面は4:3、画も中途半端に古くさい感じ。「往年の名作」でなければ、最近の画の綺麗なコンテンツに埋もれてしまうだろう。クラシックをアレンジしたBGMは、1990年代のシンセみたいなチープな音で、輪をかけて古く感じる。

最近5年くらいのレビューでも高評価が目立つ。特にハル(最終)ルートの評価が高い。

一方、自分の感想としては、つまらなかったレベルではなく、時間の無駄だったと感じたほど。序盤は後ほど面白くなることを信じて続きを読まなければいけなかったし、中盤以降続きが気になる理由が、面白いからではなく、釈然としないからというだけだった。

終盤の盛り上がりなど、目を見張る部分もあるのかもしれないけれど、登場人物や個別ルート等の設定が、作品全体に対して必要な要素だとは思えない。登場人物も「良い意味で」個性的というよりも「異常な」性格の人ばかりだし、普遍的なメッセージが作品から全く伝わってこなかった。(公式サイトには「―命をかけた、純愛―」と書いてあるが…)

中身はあんまり無いけれど、心温まる話というジャンルと対比するならば、この作品は中身が無い胸くそ悪い話みたいな感触を受ける。

『萌やし泣き』の必要性

G線上の魔王プレイ後、VNやアニメ等色々思い返しつつ、『萌やし泣き』は有効というより必要なのだろうと思った。特別なことはなくても幸せな日常があるからこそ、それが失われたときの悲しみや、取り返そうとする登場人物の切実な願いに心動かされる。『萌やし』パートが無い悲劇は、ただの救いの無い(あるいは胸くそ悪い)世界になってしまう。

優しい世界が続くだけの日常ストーリーは、退屈かもしれないが、癒やしになることも多い。一方で、暗い世界が日常的に続くだけというのは、読者に内容を追い続けてもらう理由をほとんど提供出来ない。

ハッピーエンドを迎えるにせよ、そうでないにせよ、読者に深い悲しみを感じさせたいのであれば、感情の落差が必要だ。『萌やし泣き』は打って付けの技法なのだろう。

古いコンテンツを「過去のもの」たらしめる理由

少し前のコンテンツであれば、登場人物が持っているのは、スマートフォンではなく、フィーチャーフォンということはよくある。かなり古いコンテンツになれば登場人物は携帯電話を持っていないこともある。しかし、それが「今敢えて消費するに値しないコンテンツ」たらしめる訳ではない。主人公が中世的世界観に転生するという設定はメジャーだが、転生した世界で文明の利器が使えないからといって、昔の話なのでつまらないということにはならない。

今でも近代以前の多くの作品が親しまれていることを考えれば、技術水準の不一致があるからといって、コンテンツを陳腐化させる確実な要因とはならないことは明らかである。

一方、ある時代の技術水準や社会的背景への深い理解を作品の理解の前提においた場合、コンテンツの寿命は短くならざるを得ないだろう。普遍的メッセージを伝えるための手段としてそれらの設定が用いられるのか、それらの設定が作品の大部分を占めてしまうのかが、分かれ目となるのかもしれない。

自らの太平洋戦争の経験を元に「戦争の悲惨さを伝える」活動が、おじいさんおばあさんの昔話になってしまうのも、同じような理由に思える。ある個人の80年近く前の経験を、普遍的なメッセージにするのは無理がある。「人の命の尊さ」を訴えるならば普遍的なメッセージとなるが、その場合戦争だけを(もっと言えば太平洋戦争の個人の記憶だけを)取り上げるのは適切ではない。

例外はあるとしても、普遍的テーマを扱った過去の作品が生き残り、新たに作る作品も普遍的テーマを扱うのが正攻法ということになる。そうなると、内容そのもので過去の作品と戦うことは容易ではない。内容自体で差別化が難しいのであれば、人々の消費方法を変化させつつ、それに合わせたコンテンツを供給することは、過去のコンテンツとの戦い方として極めて妥当と言える。

昨今の倍速視聴への対応以前は、本(活字)からマンガやアニメにするといったことも一つの方法だったのだろう。映像・音・声優の演技などを組み合わせることが出来るアニメは、挿絵があるとはいえ基本的に全てテキストで説明が必要な原作ラノベと比べて、時間効率の良い(≒詰め込んだ)コンテンツに出来る。スマートフォンの画面でもアニメはそれなりに見られる(実際に見ている人も多い)が、本を読もうとするとタブレット等でないと読みにくい。市場経済においては、より多くの人が、より多くのコンテンツを消費出来るように、つまり、より楽に消費出来るようにする手段への転換が求められる。

極論すれば、過去のコンテンツと新しいコンテンツで内容に大差が無いのであれば、新しいコンテンツを作る必要性は無いことになる。過去の作品を今の視聴形態等に合うようにリメイクすれば、今消費されるコンテンツを生み出すという目的は満たせてしまう。昨今リメイク作品が多いのも頷ける話だ。

 

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