「失われた未来を求めて」に見る、演出の限界

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冬休みのゲームプレイ

元々は、季節が真逆の『Summer Pockets REFLECTION BLUE』をプレイしようと考えていた。しかし、攻略サイトを見つつプレイを始めたところ、非常に長そうだったので後回しにすることにした。

代わりに、アニメやレビューを見て良い意味でも悪い意味でも気になっていた、『失われた未来を求めて』(われめて)をプレイすることにした。(発売元のTRUMPLEが解散して公式サイトが消滅しているところからも、本作品の状況が窺い知れる。)

噂通りのクオリティ

某レビューサイトでも書かれていた通り。

絵と演出は素晴らしい。立ち絵は美しく、瞬きと口パクのおかげで、まるでアニメを見ているかのように楽しめた。ぬるぬるアニメーションなんかなくても、十分に登場人物の存在を感じることができる。

シナリオはスカスカ。ゆいTRUE END以外の個別GOOD ENDは、シナリオが全体の流れと辻褄が合っていないだけでなく、個別ルートとしてストーリーがほとんど無いことを、R18シーンを何度もねじ込んで尺を稼いで誤魔化しているかのよう。ゆいTRUE ENDも含め、設定やその説明が雑過ぎるために謎が解決する気持ちよさが無いし、全体としてのメッセージも伝わってこない。

演出の限界

昨今は、「クリエイターの表現力を広げる」ためのテクノロジーが持て囃され、一見して絵がキレイであるとか、有名な声優を起用しているといったような、分かりやすいインパクトを、制作側も消費者も求めている面がある。(SNSとアルゴリズムがその傾向を強化しているのは言うまでも無い。)

しかし、『われめて』を劣化版『STEINS;GATE』と酷評するレビューが散見されるように、シナリオという本質的要素の質は、演出によって代替することはできない。
立派な額に入れればどんな絵画も素晴らしいものになるわけではないし、どんな楽曲も一流のホールで一流の機材で録音すれば素晴らしい曲になるわけではないのと同じで、投下資本に対するスケーラビリティの低さ自体が、アートの価値である。

複合メディアの負の側面

テキストと音声、CGなど、色々なメディアを組み合わせれば、「臨場感」は高まるかもしれないが、組み合わせる要素が増えれば、より優れた作品になるアップサイドリスクよりも、要素の一つの質の悪さが全体を台無しにするダウンサイドリスクが高まっていく。

全ての要素に欠陥がなく、統合方法としても優れたものを作ることは難しく、非効率で贅沢な要求と言える。マスマーケットに向けて、「複合メディアを活用した素晴らしい体験」が広く提供される未来を思い描くことは、クリエイターの劣悪な労働条件よりも遙かに、アートの未来を危険に晒しているように思える。

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